3.11からしばらく経った頃、NPR(アメリカ公共ラジオ局)を通し、相馬市の仮設住宅に住む被災者の声が聞こえた。祖父母と同じ話し方−心暖まる方言であった。福島にいる私の父方の祖父は、学徒動員令のもとに、北海道の出征兵士の留守宅にて農作業をした。1944年、満十六歳の頃だった。終戦後、農学校卒業してから定年まで、農林水産技官として国に勤め上げた。生涯農業に携わった彼は今、福島の大地をどのような気持ちで見つめているのだろうか。
壮大に広がる田圃と畑。景色に奥行きを作る山々。時間の記憶を包容した家屋。福島は私にとっての日本の原風景であった。ここ10年の間、帰国の度に父と福島へ帰っていた旅路は何か特別な時間であった。そんな記憶は遥か遠くの過去のように感じる。
つい最近まで、日本を一歩出れば誰も知らなかった「福島」は、今では知らぬ人がいない被曝地「フクシマ」となってしまった。先人達が、尊い命を落とした大地に降り注いだ死の灰。線量計の数値が不気味に上がる中で土壌を採るという行為は、恰もお骨を拾うような奇妙で恐ろしい感覚であった。
見えない粒子が銀塩感光材に焼き付けた痕跡。こんなものは目にしたくなかった。
手探りのプロジェクトにも関わらず、多くの友人、家族、そしてプロジェクトに賛同し、支援してくださった多くの方々の協力があって、序章を形にすることができた。この場を借りて感謝の意を伝えたい。 (2012年7月)